【朝ドラで話題】小泉八雲と妻セツ|言葉と文化の壁を越え『怪談』を生んだ夫婦の物語
2026年02月13日20時00分
2025年秋の連続テレビ小説のモデルとして注目される、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)。
ギリシャに生まれ、アイルランド・アメリカを経て日本へとたどり着いた旅の果てには、彼の人生を変える出会いが待っていました。それが、のちに妻となる小泉セツとの出会いです。
三部構成でお届けしてきた八雲の生涯も本記事で最終回。
「セツとの出会い編」として、松江での出会いから結婚、そして“怪談”が生まれる背景にあった夫婦の絆をたどります。
異文化の境界を越えて生きた八雲が、どのようにして“日本での居場所”を見つけたのか——。
漂泊の末に日本を最後の住処に選んだ八雲と、彼を支え続けた一人の女性の物語を、ぜひご覧ください。
八雲を支えた妻セツとの出会い

小泉八雲旧居
長い旅路を経て、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が日本で最初に腰を落ち着けた場所が、島根県松江でした。
静かな城下町での新しい暮らしは、穏やかな日々になるはずでしたが、松江の冬は彼にとって想像以上に厳しいものだったようです。
そんな折、体調を崩しがちになった八雲のもとに、身の回りの世話をするために雇われたのが小泉セツでした。
セツは誠実に八雲を支え、食事や生活の細やかな世話をしました。二人が惹かれあうのに時間はかからず、やがて事実上の夫婦として暮らし始めます。有名なオペラ作品である「蝶々夫人」のように、当時は西洋人が日本人を現地妻にすることは少なくありませんでした。しかし、そうした女性たちは「洋妾(ラシャメン)」と呼ばれ、さげすまれることもしばしばでした。
しかし、八雲とセツの関係は一時的なものではありませんでした。二人は互いを必要とし、周囲の偏見や差別の中でも支え合い、確かな愛を育んでいきました。後年、八雲は友人B・H・チェンバレンに宛てた手紙の中で「日本民族の善への可能性は、この日本人女性の中に集約されている」と記しています。この一文からも、八雲がセツをどれほど深く尊敬し、愛していたかがうかがえます。
松江の寒い冬に始まった出会いは、八雲の人生を大きく変える転機となり、やがて第2回で紹介した「小泉八雲」という新しい名を名のるきっかけへとつながっていきました。
八雲を支えた女性・セツってどんな人?

セツが占いをした鏡の池
では、ハーンの人生を決定的に変え、「小泉八雲」を生んだ妻セツとは、どのような女性だったのでしょうか。
彼の伴侶であり、創作の大きな支えとなったセツの歩みを、ハーンと出会う前から見ていきます。
小泉セツは、1868年に島根・松江の藩士の家に生まれました。 ところが、生まれてすぐに親戚の家である稲垣家の養女となり、家の事情で11歳から機織りなどで働かねばならない厳しい生活を送ることになります。 18歳のときに結婚も経験しましたが、その夫は間もなく家を去り、セツは再び厳しい日々に戻ります。 そんな苦しい生活の中でもセツは、子どもの頃から好きだった「昔話」や「地域の伝説」「怪談」などを覚えており、心の中に大切にしていました。
そんな折、松江の中学校に英語教師として赴任したハーンの身の回りを世話するため、住み込みの女中として雇われることになったのです。このとき八雲は40歳、セツは22歳でした。言葉や文化の壁を超えて、孤独を抱えるハーンを誠実に支えるセツの姿は、やがて彼の心に深い信頼と愛情を芽生えさせました。
セツは地域の伝承や言葉、昔話に親しんできたからこそ、外国人であったハーンに日本の心を伝えることができました。彼女の存在があったからこそ、ハーンは日本の怪談や民話を理解し、それを世界に伝える物語に昇華させることができたのです。
新たな暮らしと「ヘルン言葉」
日本で暮らし始めた八雲ですが、日本語の勉強を早めに切り上げてしまいました。一方、妻のセツは英語がまったくわかりません。二人は「どちらの言語でも話せない」という不思議な状況のなかで、独自のコミュニケーション方法を生み出していきました。
それが、後に「ヘルン言葉」と呼ばれる夫婦だけの特別なことばです。
この言葉では、「~が」「~を」などの助詞が省かれたり、形容詞の変化がなかったり、英語の言い回しが混ざったりします。
たとえば八雲が「テンキ コトバナイ」と言えば、「今日は文句なしのいい天気だ」という意味になります。
はじめて聞く人にはまるで暗号のようですが、八雲とセツにとっては、心を通わせるための大切なことばでした。
二人の子どもたちは、「パパとママは、誰にもわからない神秘の言葉で話している」と語っています。
言葉の壁を越えて、一緒に暮らすために作られた二人だけの言語。それは八雲一家の温かい思い出として、今も語り継がれています。
セツとの結婚、「小泉八雲」の誕生

スサノオノミコトが和歌を詠んだ八重垣神社
松江の風土やそこで生まれ育ったセツを愛した八雲でしたが、もともと暖かい国で生まれた彼にとって松江の厳しい寒さはとてもつらいものでした。寒さで体調をくずすことも多かったため、心苦しく思いつつもハーンは松江を離れることを決めました。そして熊本の第五中学校の英語教師の職を得て、セツとともに熊本に移り住むことになります。
熊本での生活の中で、ふたりの間には第一子となる男の子・一雄(かずお)が誕生しました。長男が生まれたことをきっかけに、ハーンは正式にセツと結婚し、日本に帰化(日本の国籍を得ること)を決意します。これは、自分が亡くなったあとも著作の権利や遺産が家族にきちんと受け継がれるようにという想いからでもありました。
その後、熊本を離れた八雲は、次は神戸で新聞記者として働きます。そして1896年2月10日、八雲の入夫婚姻(セツの家の婿に入ること)と帰化の手続きが完了しました。こうしてふたりは日本で191番目の国際結婚を果たします。
このとき、セツの生家である稲垣家の万右衛門の提案で、ハーンは新しい名を「小泉八雲(こいずみやくも)」としました。その名は、スサノオノミコトが詠んだ「八雲立つ出雲八重垣妻籠に八重垣作るその八重垣を」という歌から取られたものでした。
こうして世界中をさまよったひとりぼっちの少年は、最愛の人ともに日本人として新しい人生を歩み始めたのです。
夏目漱石と小泉八雲の意外な関係?
松江でセツと出会い、結婚して「小泉八雲」と名のったハーンは、熊本、神戸を経て、1896年に東京帝国大学の英語教師に招かれました。
実はここで、日本文学を代表するもう一人の文豪・夏目漱石との不思議な「すれ違いの縁」が生まれています。
ハーンが熊本の第五高等学校を去ったわずか2年後、今度は漱石(当時の名は金之助)が同じ学校に着任します。
そして、1903年。ハーンが帝国大学で教えはじめてから7年後、突然の解雇にあった際、その“後任”として呼ばれたのが夏目漱石でした。
人気講師だったハーンのあとを継ぐ重圧は大きく、漱石は教え子への手紙で「二代目小泉にはなれそうにない」とこぼしています。漱石の代表作『吾輩は猫である』に八雲の名が登場するのも、彼がどれほど八雲を意識していたかを物語っています。
二人は直接会うことはなかったものの、まるでハーンの足跡を追うように、漱石は同じ道をたどることになりました。
その後、正宗白鳥や小川未明など多くの作家が八雲に学び、日本文学の形成に大きな影響を受けました。
異文化に向き合った八雲のまなざしは、漱石をはじめとする作家たちの心に静かに染みわたり、近代文学に深い足跡を残したのです。
八雲とセツの別れ

隠岐の島、海士町の八雲とセツの銅像
帝国大学を離れたあと、小泉八雲は早稲田大学で英語を教えるようになりました。
熱心な授業と学生へのまなざしは変わらず、教壇に立つことは八雲にとって大切な喜びでした。
しかし1904年9月19日、八雲は突然の心臓発作に倒れてしまいます。
このときはなんとか持ちこたえ、八雲は家族の未来を思い、知人に頼んでフランス語で遺書を書きました。八雲は若いころ、叔母の遺産を親戚に横取りされてしまった苦い経験があったため、同じことが自分の家族に起こらないようにという願いがあったのです。
その一週間後の9月26日の朝、八雲はセツに「不思議な夢を見た」と語ります。
それは西洋でも日本でもない、どこか遠くの美しい場所へ旅をする夢でした。
そして、その日の夜、静かに「ママさん、先日の病気また参りました」とつぶやくと、
横になり、眠るように息を引き取りました。
54歳でした。
セツはそばで夫の手を握りながら、その最期を見届けたといわれています。
八雲亡き後の小泉セツ
八雲が亡くなったとき、セツはまだ36歳。
残された4人の子どもはまだ幼く、生活の不安も大きくのしかかりました。
それでもセツは気丈に家族を支え、母としての責任を果たそうと懸命に生きました。
そんなセツを助けたのは、八雲と親しかった友人たちでした。
外国語で書かれた著作の権利や印税の手続きはとても複雑でしたが、友人たちが力を貸してくれたおかげで、作品の収入はきちんと家族のもとに届けられました。
八雲が残した物語は、セツと子どもたちの暮らしを支える「遺産」となったのです。
晩年のセツは、八雲の好きだったクリーム色のバラを大切に育てたり、
茶道や小鼓を楽しんだりしながら、静かな日々を送りました。
夫を思い続ける気持ちは変わらず、けれどもその想いを抱えつつ、穏やかに暮らしていたと伝えられています。
1932年2月18日、セツは孫たちに見守られながら、かつて八雲と共に暮らした西大久保の家で静かに息を引き取りました。その姿は、家族と夫を愛し抜いた人生そのものだったといえるでしょう。
八雲怪談と再話の魅力
「再話(さいわ)」という言葉を知っていますか?
これは、むかしから伝わる昔話や伝説を、新しい形で文学作品として語りなおすことをいいます。小泉八雲の代表作『怪談』は、この「再話」という文学のジャンルにあたる作品集です。
八雲は妻のセツから日本各地に伝わる超自然的な怪談や伝承を聞き、その中に「人間が生きるうえで大切にしている根本的な価値」を見出しました。『怪談』に収められた作品はどれも短く、数ページほどの長さで、文章は決して難しくありません。シンプルで読みやすいのに、そこには前世や死者の存在、因果の不思議、人々の心の奥に潜む心理などへの深い問いが込められています。
それらの問いの多くは、原典の伝承にはなかったもので、八雲自身の人生経験が色濃く反映されていると考えられます。
セツが語って聞かせた日本独自の精神を伝える伝承の数々を、八雲が自己の内面と普遍的な価値を加えて描き出された『怪談』は世界中で面白く読まれ、今も読み継がれています。伝承と人生経験がまざり合った八雲の再話は、時代や国境を越えて、人々の心をつかみ続けているのです。
親子で八雲とセツの怪談をまんがで読んでみよう |『まんがで読める 小泉八雲怪談』

小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の怪談は、「雪女」や「耳なし芳一」など、日本の怖い話の原点といえる名作ばかり。そんな八雲怪談がまんがになりました!
まんがならではの迫力ある描写で怪談の世界を体感できるだけでなく、各場面にはわかりやすい解説がついているので、時代背景や文化も自然に学べます。
まとめ:旅の終着点で出会った最愛の人と紡いだ物語『怪談』
世界をさまよったラフカディオ・ハーンは、日本でセツと出会い、「小泉八雲」として新しい人生を歩み始めました。松江での出会い、熊本での子育て、東京での晩年の日々──そのすべてのそばには、八雲の感性を深く理解し、物語の源泉となったセツがいました。
夫婦だけの「ヘルン言葉」で心を通わせ、日本の昔話を語り、生活を支え、ときに創作の方向を照らす存在となったセツ。彼女がいなければ『怪談』は生まれなかったでしょう。
八雲の死後も、セツは家族を守りながら、彼の作品を未来へ受け渡しました。
旅する文学者と、物語好きの日本人女性──二人の人生が重なったことで、日本の物語は世界へ広がりました。
今も読まれ続ける『怪談』の奥には、夫婦がともに紡いだ静かな愛の物語が息づいているのです。

