【朝ドラで話題】日本文化に心を奪われた作家・小泉八雲|『古事記』から始まる来日の物語
2026年02月10日20時00分
2025年秋の連続テレビ小説のモデルとして注目を浴びる、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)。
ギリシャに生まれ、アイルランド・アメリカを渡り歩いた彼が、なぜ“日本”という遠い国に魅せられたのか?
本記事では、三部構成でお届けする八雲の生涯の第2回「日本との出会い編」として、
ラフカディオ・ハーンが日本を知り、来日を決意するまでの道のりをたどります。
異文化の境界を越え続けた旅人が、どのようにして「小泉八雲」へとつながる第一歩を踏み出したのか──。
日本を愛した一人の作家の軌跡を、ぜひご一緒にたどってみてください。
ラフカディオ・ハーン、日本に出会う
ラフカディオ・ハーンが日本という国に初めて出会ったのは、1884年にアメリカ、ニューオリンズで開催された万国博覧会でした。世界中の国が集まる大イベントで、アジアからただひとつ参加していたのが日本でした。
会場に並んだ日本の展示品のひとつひとつにハーンは強く心を動かされ、毎日のように取材に通ったといいます。西洋の文化とはまるでちがう日本の美しさに、彼は深い魅力を覚えたのです。
このとき、日本代表のひとりとして博覧会に参加していたのが服部一三(いちぞう)でした。ハーンは一三に日本についての細かい質問をしたといいます。後に日本で助けになってくれる人物との出会いは、この博覧会で訪れた「偶然の奇跡」だったのです。
『古事記』と出雲の国への憧れ
西洋の国々は当時、急速に近代化の波にのまれて大きく変わっていました。ハーンもその中に生きていましたが、速すぎる変化に心が疲れ、「新しい居場所」を求める気持ちにかられていました。
そんなとき、ハーンはイギリスの学者B・H・チェンバレンが英語に訳した『古事記』を手にします。『古事記』は、日本最古の神話や歴史が書かれた本です。その物語にふれたとき、ハーンは自分が生まれたギリシャの神話を思い出しました。神々が自然とともに生きる世界、日本人の心のあり方に、ふるさとを重ねて深い共感を覚えたのです。
とくに彼が心をひかれたのは、日本の古い文化が色濃く残る「出雲」でした。古事記に描かれる神話の舞台となった出雲の国には、古代からの精神や伝説が息づいていると感じ、ハーンは強い憧れをいだくようになったのです。
ハーンが強く心をひかれた「出雲の国」。今でも島根県には、小泉八雲の足跡をたどれる場所が数多く残っています。神話の舞台や八雲ゆかりの地を実際に歩いてみると、彼が感じた憧れを追体験できるかもしれません。
とんとん拍子に決まった日本行き
日本に強い興味をもったハーンは、働いていた出版社に「日本へ取材に行きたい」と計画を出しました。すると意外にも、あっさりと採用されます。ハーンの要望が叶えられたのは、日本が「アジアで唯一、近代化に成功した国」として世界中から注目されていたからです。
こうして1890年4月4日、ハーンは画家のウェルドンとともに横浜に到着しました。しかし、出版社との関係がこじれてしまい、会社をやめ、すぐに生活に困ることになります。
そんな彼を助けたのが、『古事記』を英訳したチェンバレンと、ニューオリンズの万国博覧会で出会った服部一三でした。二人の協力によって、ハーンはなんとか英語教師の職を得ることができました。そして、その赴任先はなんと、ずっと憧れていた出雲の地だったのです。
ハーンがやってきた頃の日本
ハーンが日本にやって来たのは1890年。ちょうどその少し前の1889年に大日本帝国憲法が発布され、翌年には初めての国会(帝国議会)が開かれました。天皇を中心にした政治のしくみが整い、日本は「近代国家」として歩み出したばかりでした。
国際社会で認めてもらうために、西洋にならった法律や軍隊が整えられ、外国との不平等な条約を改正しようと努力も続いていました。産業も発展し、製糸や紡績の工場が広がり、鉄道は東京から神戸までつながるようになります。
町では西洋の洋服やレンガの建物が目につく一方、神社のお祭りや年中行事も守られており、和と洋が入り交じった独特の暮らしが形づくられていました。そんな変わりゆく日本を、ハーンは興味深く見つめていたのです。
ハーンから八雲へ

隠岐の島、海士町の八雲とセツの銅像
ハーンは、日本に来てから6年ほどたったとき、国籍を日本にうつし、名前をラフカディオ・ハーンから「小泉八雲(こいずみ やくも)」とあらためました。その名前の由来は古事記に登場する歌「八雲立つ 出雲八重垣 妻込めに 八重垣造る その八重垣を」で、これはスサノヲノミコトが出雲の国に宮を建てたときの歌だとされています。
松江で出会った妻・セツとの結婚が、その大きなきっかけであったと思われますが、外国人だった彼は、日本で日本人としての新しい人生を歩みはじめたのです。
そして、八雲の代表作である「怪談」の制作にもセツの存在は欠かせないものでした。怪談好きであったセツから、日本の不思議な話を聞き、その魅力にひかれていきます。セツとの出会いがなければ、「怪談」も生まれていなかったかもしれません。
神々の住まう国、松江で英語教師となる

松江城
ラフカディオ・ハーンが英語教師として最初に赴任したのは、島根県の松江でした。月給はなんと100円。現代の感覚からすると、お菓子のひとつも買えないほどの金額のように感じてしまいますが、当時の小学校の先生やおまわりさんの給料が月8〜9円、大工さんや工場のベテランでも20円ほどだったことを考えると、とてもよい待遇だったことがわかります。
ハーンは授業で「自分で考える力」を大切にし、生徒の想像力を育てる教育をしました。生徒たちは次第に、ハーンをかたい響きの“Sir(サー)”ではなく、親しみをこめて“Teacher(ティーチャー)”と呼ぶようになり、彼を兄のように慕ったといいます。
放課後には、生徒たちと一緒に松江の神社やお寺をめぐるのが日課となっていました。ハーンは生徒を指導するだけでなく、逆に彼らから松江の暮らしや文化、日本人の心のあり方を学んでいったのです。
お気に入りの散歩コースは松江城の城山で、2000体もの石のきつねが並ぶ城山稲荷神社などをよく訪れたといいます。ハーンは城の天守にまつわる不思議な話など、この時に聞いた話も数多く書き残しています。
「ヘルン先生」と呼ばれたハーン
松江の人々は、ラフカディオ・ハーンのことを「ヘルン先生」と呼んでいました。なぜ、「ハーン先生」ではなく「ヘルン先生」だったのでしょうか?
実は、これはちょっとした間違いから生まれた名前です。ハーンを雇うことに決めた島根県知事が契約書類に「Hearn(ハーン)」を、うっかり「ヘルン」と記してしまいました。本来なら訂正するところですが、ラフカディオ本人がそれを面白がり、そのまま受け入れてしまったのです。
そのため松江の人たちは、自然と「ヘルン先生」と呼ぶようになり、彼のことをしたいました。妻のセツもまた、夫のたどたどしい日本語を「ヘルン言葉」と呼び、同じように独特な言葉づかいで会話をしていたといいます。
今でも松江では、八雲がよく歩いた散歩道が「へるんの小径(こみち)」と呼ばれています。そこには、松江の人々から深く愛され続けた「ヘルン先生」の名残が今も息づいているのです。
親子で八雲とセツの怪談をまんがで読んでみよう |『まんがで読める 小泉八雲怪談』

小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の怪談は、「雪女」や「耳なし芳一」など、日本の怖い話の原点といえる名作ばかり。そんな八雲怪談がまんがになりました!
まんがならではの迫力ある描写で怪談の世界を体感できるだけでなく、各場面にはわかりやすい解説がついているので、時代背景や文化も自然に学べます。
まとめ:ラフカディオ・ハーンが見つけた“新しいふるさと”

小泉八雲旧居
ラフカディオ・ハーンが日本を知ったきっかけは、万国博覧会で偶然出会ったひとつの展示でした。
『古事記』の神話に心を揺さぶられ、出雲という土地に強く惹かれ、
その想いはやがて来日という大きな決断へつながっていきます。
急速に変わりつつあった明治の日本で、ハーンは西洋とは異なる価値観と向き合い、
「自然とともに生きる文化」「人が語り継ぐ物語」「暮らしに息づく信仰」に、
自分の原点を重ねるように深い共感を抱きました。
日本での様々な出会いが、彼を世界中を転々とする漂泊の旅人から、日本を愛し、日本に生きた作家へと変えていきます。
次の記事では、いよいよハーンが松江で出会う最愛の人、小泉セツとの物語へ。
二人の暮らしがどのように「小泉八雲」という名前を生み、
世界中で読み継がれる名作『怪談』へつながっていったのかをご紹介します。

